著者: | 金城 一紀 |
読み: | かねしろ かずき |
題名: | 『GO』 |
出版: | 講談社文庫 |
発行: | 2003/03(2000/03) |
受賞: | 第123回直木賞受賞 |
読了: | 2003/04/18 |
評価: | A-: ★★★★★ |
感想: |
日本で生まれ日本で育ち日本人となんら変わることはないハズの在日朝鮮人の主人公。しかしそうは問屋がおろさないのが現代日本。主人公の青春は?友情と恋愛と親愛と自愛を圧倒的なスピード感で描く。 面白い!久しぶりのAをあげる!夢中で読んでしまった。一流のエンターテイメント。いかにも直木賞。 エンターテイメント小説だから、本当は感想文なんて必要ない。でも、この小説の表の顔である「親子・友人・恋人との青春模様」の裏にはとても大事なメッセージが込められている。言葉や論理の持つ力の大きさと限界、言葉や論理による納得と感情による納得の肯定も否定もできない違い。力強く生きていくことの意味。インテリの限界、などなど。それでいて全然説教臭くないし教養を振りかざしたりしない。 一般には、「今までになかったポップな在日文学」という宣伝や評価があるようだ。文庫の帯にもこの一文が掲げられている(窪塚洋介が主演した映画になったことで違う捉え方や受け取り方が広がるだろうけど)。違う。主人公の在日性は舞台設定であってテーマではない。僕は「主人公が在日であることは【乗り越えなければいけない障壁が高ければ高いほど愛は燃え上がる】という文学の基本を現代日本という舞台でリアルに描くための設定」と受け取った。 むしろ、考えることと感じることの対比がこの作品のテーマだと感じた。差別はいけないという論理や倫理には誰も反論できないけれど、心の底にはなんとなく嫌だなという感情がある。この作品に引き付けていえば、桜井のお父さん。インテリで慣習にとらわれない物分りのよいお父さんが、在日だけには拒否反応を示す不条理。いくら俺が朝鮮人であることと日本人であることの区別の無意味をミトコンドリアや東アフリカのイブ説などで理論武装して説明しても役に立たない。それでもやってくる明日。この対立は「いま、この瞬間をどう生きるか」という問いに回避・回収されてしまった感じが否めないけれど、考えてもどうしようもないことと考え続けないといけないこと、頭では分かっているのにどうしようもない感情、そういった対立を矛盾をはらんだまま引き受け生きていく姿をときに格好よくときに格好悪く描いてみせるこの作品に賛美を贈りたい。 この感想文を読んで下さった方からは逆に「過去や未来にロジックを求めすぎることこそ『いま、この瞬間をどう生きるか』という問いからの回避なのではないか」というコメントを頂きました。なるほど。僕にとっての「考えることと感じることの対立」は対等ではなかったんだと気づかされました。
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