著者: | 大塚 英志 |
読み: | おおつか えいじ |
題名: | 『キャラクター小説の作り方』 |
出版: | 講談社新書 |
発行: | 2003/02 |
読了: | 2003/05/06 |
評価: | C+: ★★★ |
感想: |
大塚の物語消費論を(建設的に)批判した東浩紀の『動物的ポストモダン』に対する大塚の回答。 猫耳だとか宇宙戦争だとか左右で目の色が違うだとか、そういった萌え要素を組み合わせることと、物語の世界や世界観を構築し登場人物にリアリティ、すなはち命を吹き込むことは別の次元の作業であり、ここに作者のオリジナリティを発揮させる余地があるという。左右で目の色が違う、という要素をデータベースから引っ張り登場人物の属性に当てはめることは確かに誰にでもできる作業だが、その要素に説得力のある背景を設定することや必然性を持たせることはそれほど簡単ではなく、ここがきっちりできていれば「オリジナリティに欠ける」という批判は的外れになるだろう、という。 東は、ポストモダンの時代においては作者と読者は同じ側に立っていると指摘した。「真理とその代弁者である作者」対「読者」という近代の構図に対して「データベース」対「作者と読者」という構図があり、作者と読者の違いはテクニックの差でしかなくオリジナルとコピー、本物と偽物という区別は重要ではなくなると。しかし大塚はテクニックを磨いていけば「あちら側」にいけるかのような暗示をしている。 一理あるが、二次作品三次作品がどう消費されているのかに踏み込んだ東論に比して大塚論はいかにもナイーブ。この本が消費者ではなく生産者に向かって書かれていることもあるが、作品の完成度と真正さ(本物かコピーか)を意図的に混同して議論をすり替えているようにすら感じられる。 また、日本の「大文字の文学」が言文一致と自然主義の流れを受け、「私」をあるがままに記述しようとする私小説であったと説く。ここから、小説の主人公を「私」と見なして丹念にその内面に迫っていけば自然に私小説になるという。キワモノあるいは一段レベルの低いものと見なされているキャラクター小説は本流からそれほど遠くないのだ、サブカルチャーとしてのキャラクター小説はメインストリームの純文学と地続き、だ、という。「私小説」をとらえ直す視点としては面白いがキャラクター小説をとらえ直す視点としては不十分。メインカルチャーのないところにサブカルチャーは存在しえない。オタクによるキャラクター小説がメインカルチャーたりえる場合のサブカルチャーを示していないので、「ジャンルやスタイルは文学の価値を既定しない」というメッセージではなく「オタク文学から本物の文学へ脱皮しよう」というメッセージに読めてしまう。オタク文学 = 偽モノ v.s. 純文学 = 本物という図式がここにも見え隠れする。なんとも残念。 章ごとの扉絵などに小さく描かれている挿し絵がイイ。『物語消費論』文庫版の表紙も提供している西島大介によるもの。 |