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宮台 真司(みやだい しんじ)

『援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002―

本のデータ
著者: 宮台 真司
読み: みやだい しんじ
題名: 『援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002―
出版: 朝日文庫
発行: 2002/11
個人データ
読了: 2003/05/20
評価: A: ★★★★★
感想:

宮台が書いた「解説」を集めて一冊の本に再編集し、さらに解説を書いた著者自身からのコメントを収録。

島田雅彦の言葉:「差異のないところに差異を見つけていくことが云々」と肯定的に発言。東浩紀は1990年代前半のバブルの時代を「差異化のゲームの時代」と切り取ってみせた。2000年を過ぎて島田ともあろう人物がこういう発言するとは。

吉永マサユキの言葉:「正直いってよくわからない。ぐたぐた言っているがこの人は命をかけたことがない人」とバッサリ。

オウムをオウム=悪と決め付けない視点から描いた映画監督森達也の『「A」撮影日誌』の解説:人は体験を体験のまま受け取ることができない。安心するために、既存の枠組みに収まるように「生の体験」を「加工」してしまう。それが一連のオウムや9.11のアメリカに対するマスコミ報道にするどく現れている。マスコミは主体性を持ってあのような報道をしたというより、受け取り手の感性に反応して意思なく垂れ流しただけなのだ。
しかし森達也氏は「体験」を「(都合よく)加工」しないで、どちらの立場にもすりよることなくその間にぐっと留まってオウム(アレフ)を映し続けた。

桜井亜美の作品を評して:ブルセラ少女たちは世界を受け入れないことによって疎外感を克服している。受け入れてもらえない結果の疎外感ではなく自らが拒否した結果の疎外感であれば折り合いをつけられる(だってそれは存在感の希薄な影絵でしかないのだから)という戦略、汚れつつ世界に受け入れられるオヤジどもよりは汚れつつ世界に受け入れられない方がマシだというプライド、など。1948年生まれの笠井潔が必死に世界と私を結ぼうとあがき悩んだ青春(『動物化する世界の中で』参照)とのこのギャップ。

宮台によるあとがき:本書に限らず、自分の発言は自分の実在の為であると言う。「実在」という言葉の辞書的な意味はわかるが、宮台がこの言葉に託した意味はわからない。ただ、議論のための議論、分析のための分析ではなく自分はなぜこうなのかという切実な感覚が根本、出発点にあることは理解できた。また自身の経験から導き出された「世の中の常識的な枠組みに抑圧されたりとらわれたりしないで自分の感覚を大切にするためのメタレベルの視点や思考枠組みを提示するんだ」という姿勢に好感を持った。

$Id: r20030510.html,v 1.3 2003/06/29 20:33:41 yoshi Exp $

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