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バンコク会議とは? にゅうずれたあ目次へ
4月15日に行なわれた第3回準備会議公開講演会では、宮崎伸子元ネパールワーカー(アナンダバンレプロシィホスピタル派遣)を招いてネパールのスライドを見ながらお話を伺いました。 
------------「海外医療協力とキリスト教」-----------
私は、特に海外医療協力について学んだこともありませんので、私が関わっていましたネパールのキリスト教史をご紹介し、ネパールにおいてどのように宣教が始まったのか、また、JOCSがどのように関わってきたのか、その歴史の中に神様の御手の働きを見ることができればと願っています。参考にした本は、Cindy Perry著 「A Biographical History of The Church In Nepal」です。
 16 C半ば過ぎ、インドに設立されたイエズス宣教会は、チベット宣教に関心を持ち始め、17 Cに入り、チベット宣教のためにネパールを通過地点として用いた。17 C半ば過ぎ、二人の祭司がカトマンズを訪れ、カトマンズの支配者であった"Pratapa Malla"との偶然の出会いが、ネパール宣教のヴィジョンを芽生えさせた。しかし、その後宣教計画は挫折し、18 Cに入ってカプチン宣教会が、宣教を開始した。彼らは、カトマンズ、バドガオン、パタンで宣教した。記録によれば、約80名がバプテスマを受け、9組の結婚式が行なわれたようである。彼らのほとんどは、貧しい土地無し農民で、一般のネパール人は貴族や僧侶階級の人々よりも福音に耳を傾けたが、人々はアウトカーストや職を失うことを恐れて改宗しなかったようである。ブラーミン(僧侶階級の人々)は、改宗したクリスチャンや親戚のものに対して、ありとあらゆる迫害をしたが、ほとんどの者は耐え抜いて、信仰を守った。ゴルカの "Prithwi Narayan Shah"は、ネパール盆地を征服した後、1769年キリスト教宣教師やクリスチャンを国外追放した。追放されたクリスチャンは、北インドのビハ-ル州のベティアに移民した。その後、1950年代始め、ネパールが開国するまで、クリスチャンはネパール国内に住むことを許されなかった。
一方、1835年にシッキム王は、英国にダージリンを分割して与え、英国はダージリンを発展させ、その一環として茶農園を始めた。多くの労働者が必要となり、ネパール人も労働者として働いた。ダージリンに住む英国人のために宣教師たち
もやってきて、やがてネパール人宣教も始まった。1874年、近代における最初のネパール人クリスチャン"Bhim Dal Dewan"がバプテスマを受けた。彼がバプテスマを受けてから、ネパール国内最初のクリスチャンが誕生するまで、75年以上が経過することとなった。ダージリンでは、1880年には、130人、1900年までに2,500人、1945年までには、14,000人のクリスチャン人口となった。ダージリンの教会は、積極的に国境近くのバザールでネパール人に福音を宣べ伝えた。1892年には、ネパール人クリスチャンによるネパール宣教のため、"The Gorkha Mission"が設立され、少なくとも30年間ダージリンのネパール人教会は、熱い祈りと支援を献げた。1933年北インドのRaxaulでは、ミッショナリーによる最初のネパールのための祈祷会が持たれ、ここで祈られた課題は、世界中に広がり、ネパールが福音のために開かれるようにと祈られた。
これらの宣教師たちとネパール人クリスチャンたちによって、ネパール宣教の準備は着々と進められた。やがてネパールが開国すると、ダージリン、カリンポン、シッキムのクリスチャンたちは、次々とネパールに入って行き、宣教を開始した。開国直後、1951年?The Nepal Evangelistic Band(後のINF)は、ポカラで活動を始めた。1954年、"UMN"は、unofficialにバクタプールにクリニックを開設し、1959年にはタパタリにオフィスをかまえた。1961年には、10か国、20グループ・宗派約80人のミッショナリーが働き、タンセンとアンピパールにプロジェクトを持っていた。このプロジェクトには、多くのネパール人クリスチャンがワーカーとして一緒に働いた。1957年、"The Mathai's of the National Missionary Society of India "がブトワ-ルにキリスト教書店を開いた。The Leprosy Missionは、1957年に活動許可を得て、活動を開始した。そのほか、TEAM Missionは、1959年にダンデルドゥラで活動を開始した。

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